2008年3月26日水曜日

国家行政論その3



『ロレンツ・フォン・シュタインの行政学について述べよ。』

1. はじめに
最初に行政学において行政概念とは、どのように把握されているのか。また概念の把握にいたる過程がどのようなものであるかを、行政の諸局面を考察するか考える。
行政と行政学の背景とは、行政の機能、管理的特色に重点を置いて行政構造について、何かを述べる。また、国家行政や地方行政が円滑に遂行されるためには行政の諸局面を考える。

ロレンツ・フォン・シュタイン(注[1])行政学は、ドイツ官房学を集大成し、行政法学への道を拓いたといわれる。シュタイン行政学が成立する背景、国家と行政との関係や行政学の内容、行政法学が台頭する理由などを考える。

2. 行政と行政学の背景
 行政学は、行政現像を研究対象とする学問であるが、それ以上に広範な領域を対象とした官房学(注[2])が背景に存在したことを指摘しておかなければならない。現代行政学の主流が、アメリカ行政学を中心とした経営観理論的内容を濃厚に秘めていて、17・18世紀のドイツにおいて形成された官房学を直接の系譜とするにはいささか懸隔を感ずるにしろ、行政の経営を研究対象とする点では、官房学の名を逸することはできない。

 といっても、官房学という単一の科学が高度に体系化されていたわけではない。17世紀から18世紀にかけて、特にドイツの絶対主義者君主制における官房経営に必須の重商主義的な財政学、経済学、管理学などの学問の総称が、官房学といわれたのである。

そこでは、絶対君主の官房経営がすなわち国家経済であるとされ、官房学は君主の利益の維持と増大、そして領民の産業育成を通じて国権の伸長に役立ちしめるものと考えられたのであった。こうした官房学は、1727年にハレとフランクフルト・アン・デル・オーデルの両大学に官房学の講座が開設されたのを機会に、前期官房学と後期官房学に分けられる。普通、ドイツ官房学といわれるのは、前期のそれを称される。

 国家というのは、社会全体の福祉の増殖に必要な条件の整備や創出をすることで十分なのである。一般的あるいは、全体的な福祉を大義名分として個人の権利を侵害することは、秩序ある国家のなすべきことではない。という考え方が生まれてきたのである。といって、こうした考え方が政策として完全に現実化したわけではなかった。

3. 行政学の特色
 ロレンツ・フォン・シュタイン行政学の特色は、官房学を集大成し、行政学を確立、さらには行政法学への道を拓いたといわれる。

 彼によれば、行政を憲政と対立せしめ、行政をもって国家の行為とし、行政の各分岐は国家および社会の生活領域であり、外務、軍務、財務、法務、内務の5つの内容から成るとした。「憲政」とは、相集って国家という有機体を構成する個人が国家意思の決定に参与する国家的組織であり、「行政」とは国家がすべての個人の向上を促進する任務を遂行するための国家の活動手段であるとする。すなわち、行政のもつ5つの内容である。憲政と行政という2つの原理は、ともに国家が本来属性としてもつ原理であって、国家はその本姓上その実現に努めなければならないという。だが、この2つの原理の両立がつねに約束されるとは限らない。そして、この2つの原理の調和・両立を妨げるのが、第三の原理である「社会」なのである。

 社会というには、彼によれば個人が営業、所有、および従属等の諸之の関係によって国家という協同体を離れて創り出したものであって、個人の人格の発展にとっての要素なのである。彼は、こうしたすべての人間の外部的行動を支配し、各人に普遍的に内在している。そしてあらゆる社会的地位を条件づける意義。これを利益と呼ぶ。利益は各個人相互の生活行動の中心であって、そこから社会運動が展開する。これが社会の原理なのである。憲政と社会との衝撃を改革と呼ぶことができる。革命を回避するためには、国家の第二の原理である行政の作用に期待しなくてはならない。すなわち、行政によって、不合理な社会秩序の改良を行うことが必要なのである。シュタインは、こうして行政の作用を極めて重要視したのであった。このことは、国家を国民による革命によらず、保守主義的社会改良の手段としての行政によることに力点を置くなど、官房学の政治的性質を継承したものであるといえるのである。これがシュタイン行政学の一般的な基礎理論であるが、彼は行政学を、①一方において決定力、他方において技能力を有する諸機関の体系が展開する過程の行政組織論、②行政のもつ意思は、国家人格の外部にあたって独立し、不断に変化しつつある共同体の人格との相互関係を有するものであるから、憲政の定める法規と相並んで独立するに至り、独自のものとして作用する行政作用論、③憲政の定める法規と行政作用との調和の問題としての行政訴訟論、の三つの体系から構成されるものとしたのである。

4. 行政法学が台頭する理由
 官房学の衰退、なかでも「警察」(Polizei)の概念を中核にした警察学は、19世紀には入ると法治国家思想の台頭の影響を受けて徐々に変質を遂げていったのであるが、結局のところは、「法律による行政」の原理をあらたな指導原理にして勃興してきたドイツ公法学にその座を奪われ、衰退してしまった。
 このように、官房学は17世紀の半ばまで、およそ200年間続いた学問であったが、要するにそれは絶対君主制時代の「警察国家」を支えた。君主と官僚のための学問だったのであって、立憲主義の確立を求める気運に応え、絶対君主制から立憲君主制へと推移していった時代の流れに、ついに適応することができながったのである。

 こうして、官房学が隆盛を極めたヨーロッパ大陸諸国では、民主制の憲法構造を前提にした行政についての学、言い換えれば近代行政学と称しうるほどの学問はついに誕生しなかった。僅かに、ロレンツ・フォン・シュタイン(L.Von Stein)による孤高の行政学説が異形を放つのみである。
 それでは、「警察国家」の伝説をもたず、官房学の影響も受けることの少なかったイギリスでは、しかも比較的に早くから立憲君主制の憲法構造に移行していたイギリスでは、どうであったか。近代行政学はここにも生まれなかったのである。

 ドイツ行政学の創始者ロレンツ・フォン・シュタインにしろ、アメリカ行政学の建学の父祖ウッドロウ・ウイルソンにしろ、日本の初代行政学者の蝋山政道(注[3])にしろ、いずれにも国際行政について論じた著作を通じているではないか。

 シュタインが官房学を集大成し行政学をひとつの体系の下に形成したことが、同時に行政法学への途をきりひらくことにもなったのである。
 国家は法人化された団体である、という考え方の国家有機体説というものである。これは、国家を1つの生命体として考え、国家というものの中に個人が含まれており、国家は個人の人格を尊重しなくてはならず、個人も国家を尊重しなくてはいけない、そして国家というのは普遍的な人格である、という考え方である。これをシュタイン理論とよんでいる。

 市民に参政権が与えられ、近代市民社会が成立し始めると絶対主義に基づく官房学は衰退を余儀なくされた。絶対主義の下では決定と執行が同一者によって行われていたが、両者の分離が求められるようになったのである。
 シュタインの国家はそれ自身が意思と自我を有する人格にまで高められた共同体であり、憲政と行政の二つの原理を支える。憲政とは国家の意思を形成する過程であり、これへの参加が個人(市民)に認められている。一方、行政とは憲政が形成した国家意思を実現する過程である。
 憲政と行政は対等の相互作用関係にある。

参考文献
(1) 本田 弘著『現代行政の構造』勁草書房 1994年9月30日 p9-13.
(2) 西尾 勝著『行政学[新版]』有斐閣 2006年3月20日 p12-13.p71.
[1] ロレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein、1815年11月18日 - 1890年9月23日)は、フランス初期社会主義共産主義思想、並びにプロレタリアート概念をドイツにおいて、初めて学術的にまとめて紹介した国家学者。カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から、社会主義・共産主義思想を学び、自らの思索を深めていった。マルクスはシュタインを通じて共産主義思想を学んだのであり、「社会主義・共産主義思想がマルクスによって生まれた」とする一般的な理解は、正確に言えば誤りである。
シュタインはキールにおいてヘーゲル法哲学、歴史法学を学び、イェナベルリンで学んだ後、1841年10月から1843年3月までパリに留学し、フランス法制史を学びつつ、そこでコンシデランプルードンブランカベといった社会主義者、共産主義者らと交わり、そこで得た知識を元に1842年に『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を著した。
キール大学在職中、シュレースヴィヒ=ホルシュタインデンマークからの独立運動に参加。ドイツ海軍設立委員として活躍する。しかし運動敗北後、彼は大学を追放された。その後、シュタインはウィーンにおいて職を得て、国家学者、行政学者、財政学者として名声を博した。またシュタインはジャーナリズムにも関わり、多くの新聞や雑誌に学術論文や時事論文を掲載している。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)200年10月16日

[2] 官房学、なかでも「警察」の概念を中核にした警察学は、19席にはいると、法治国家思想の台頭の影響を受けて徐々に変質を遂げていったのであるが、結局のところは、「法律による行政」の原理を新たな指導原理にして勃興してきたドイツ公法学にその座を奪われ、衰退してしまった。

[3] 日本の初代行政学者の蝋山政道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%8B%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%81%93
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)2007年11月8日

0 コメント: